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真田丸の場所と大阪冬の陣 真田信繁(幸村)はいかに戦ったのか? NHK歴史秘話ヒストリア

真田丸

真田丸とは大坂の陣で真田信繁(幸村)が築いた砦の名前です。たった一日の戦いで敵の大群一万以上を倒したという無敵の要塞。しかし400年後真田丸のあった場所にはビルが立ち並びその痕跡は全く残っていません。その真田丸の秘密迫ったNHK歴史秘話ヒストリア「徹底解明!これが”真田丸”だ~地中に残された幻の城~」の内容をまとめてみました。

真田丸のあった場所は?

大阪御陣覚書によると、真田丸の場所と規模は

  • 大阪本城の巽(南東)
  • 百間四方の出丸(180m四方)

大阪城の南東方向には、真田丸があったと伝えられる地域が沢山ある。

  • 三光神社・・・信繁の銅像がある。
  • 真田山町
  • 玉造商店街

いずれも大阪市天王寺区です。

ここから番組では専門家による科学的な調査(地中に残された真田丸の痕跡を探すためレーダー探査)を行います。これは地中にある人の手が加わった地層を探すため。
レーダーが搭載された車で真田山地区を探してもそれらしいものは見つからずにさらに範囲を広げて調査を行った所、真田山町の隣町に起伏が発見されました。

明らかに人工的に作られた深さ5m以上の溝が見つかりました。
その場所は、真田山町の隣、餌差町(えさしまち)にある大阪明星学園の南。

真田丸の場所

この場所です。

レーダーによる調査の結果を検討した結果、深さ8m幅40~45mという巨大な溝が人の手により掘られ、そして埋められたということが判明します。
この溝が、真田丸の堀とすると、その規模は大阪城の堀にも匹敵するほどの大きさで、砦というよりも、城のような物であったということが分かりました。

さらに、レーダー探査で分かった堀を太平洋戦争後にアメリカ軍によって撮られた航空写真と照らしあわせ検証したところ、濠の跡が見つかります。

つまり、真田丸のあった場所は

真田丸 場所

このあたりであったと推測されるそうです。

大阪府大阪市天王寺区餌差町 現在は大阪明星学園がある場所に真田丸は存在しました。

真田丸は半円形ではなく台形だった

真田丸の堀をつなぎあわせていった結果、その形も明らかになりました。

今まで、多くの絵図で真田丸は半円形の丸いものばかりだったのが、実は四角い台形だったという事実です。
東西220メートル、南北230メートルという巨大な四角形の城だったということが明らかになりました。

広島浅野文庫「諸国古城之図」大阪真田出丸(広島市立中央図書館)

広島浅野文庫「諸国古城之図」大阪真田出丸(広島市立中央図書館)出典

砦の南にある堀は広さ二十四間(約43メートル)でレーダー探査で判明した堀の広さと一致しており、この絵図がほぼ正確に真田丸の姿を写したものと推測されます。
また現地調査によっても絵図に示された形と実際の地形が一致しました。

絵図の両側(東西)は堀ではなく天然の地形を利用したものらしく、陣地中の赤く示された四角には寺と書き込まれています(計6つの寺の字)

現在の場所と照らし合わせると

心願寺近辺

大阪明星学園校舎の道路を一本挟んだ東側にあるエリアが赤で示された寺の場所(東側の3杜)で、絵図で示された緑色の部分は崖だったようです。上の写真で記したピンクの線の部分の内側と外側ではマンションの3階相当の高低差があります。

実際に信繁はその場所にあった寺を要塞設備の一つとして利用したようです。
寺は高い壁や、瓦葺の屋根、医療設備として使える本堂等、城としてそのまま使えるほどの設備があったのですね。

何故危険な孤立無援の出城を作ったのか?

また、諸国古城之図に描かれた北側は、深い谷だったようです。
これまで、大阪城に密接していたと考えられていた真田丸は実は孤立した出城であったようです。兵糧や弾薬の補給も難しくなる大変危険なこのような形を何故信繁は選んだのでしょうか?

番組では、わざと大きな出城を作ることで敵の目を大阪城から逸らし攻撃目標とすることで主君である豊臣家を守ろうという意志があったとしています。

真田丸勝利の秘密は鉄壁の守り

大阪冬の陣における、豊臣側と徳川方の勢力差は寄せ集めの10万対精鋭揃いの20万という倍以上の差。
絶対的兵力差がありながら、初戦で真田丸を攻めた徳川方は1万5千もの被害を出します。完膚なきまでにやられたようです。

何故、出城に過ぎない真田丸がこのような鉄壁の守りを実現できたのでしょうか?

真田丸があった場所には当時から沢山の寺があり、真田丸の中にあった6つの寺以外にも周りは寺町だったようです。今までの常識では野原の中にある真田丸に徳川勢が切り込むというイメージがありますが、実際に戦闘が行われたのは街の中だったと。

寺に挟まれた道を大軍で突進し、真田丸の巨大な堀に落ちたところを一斉に射撃され大損害を負ったのではないのかというのが番組での推理です。

破壊力抜群!有効射程距離2倍の大狭間筒

当時の火縄銃の有効射程距離は100~150メートル。
しかし大狭間筒の有効射程距離はその2倍の300メートル。
一人で構えることはできず、二三人で使う専守防衛のための大筒を使うことで、徳川軍が用意に近づく事もできない鉄壁の守りを実現したのです。

大阪冬の陣の集結と壊された真田丸

戦は膠着状態に陥ります。
業を煮やした家康は、違う戦術をとります。

この時期、家康はイギリスとの貿易を行っていました。
そのイギリスから輸入した、射程距離の長い大筒を使って大阪城と真田丸を攻撃。
その一発が、大阪城本丸を直撃し次女が死亡するという事件がおきました。

恐れをなした秀頼の母淀殿が徳川との和睦を選択。
大阪冬の陣は集結し、その後和睦の条件だった大阪城の堀が埋め立てられると同時期に、真田丸も破壊されました。

5ヶ月後、再度出陣した家康との間に大阪夏の陣が起こりますが、その話はまた次の機会に。

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